今を奏でる
廊下に貼り出されていた数十枚の修学旅行時だったかの写真。その中の、自分の写っていない一枚が欲しかった僕は、写真代に適当な理由を添えて友達に渡し、その中の一枚を購入してもらった。その適当な理由は適当だとすぐにバレてしまったが、その写真に気になる女の子が写っていたことは想像するに容易である。
僕が気になっていたその女の子には好きな人がいて、なにをどう頑張っても勝ち目がないことをその友達は教えてくれた。僕はなにも伝えることをしないまま失恋を経験した。ひげも生えてない、いがぐり坊主だった中学生の頃のお話。このことがきっかけだったか、いつしか僕は容姿のことは諦め、性格のいい男になろうと心に決めた。なんとも漠然とした内容であり、今となってはその決心がどういう風に作用しているのかわからないが、等身大で生きているつもりではいる。等身大とはなにか。今をそのまま生きていることだと思っている。
数日前、ジョージ・コールマンの生配信ライブを観た。90歳近い年齢によるライブパフォーマンス。途中から観た配信だったが終わる頃に僕は涙をためていた。全盛期を知る故に弱々しさは伝わるものの、けっして痛々しい訳ではなく、むしろ今を奏でていることに嬉しさを感じた。
ジャズは演奏家の歴史が顕著に現れる。その演奏家は歴史を積み重ね、音色やグルーヴは変化する。時間は経過するがその変化は衰えという否定的なものではなく、老いをまとった音色やグルーヴであり、それが今、生で奏でられている。ジャズの一番の魅力はこの「今」を奏でているところではないかと僕は思っている。今の音色やグルーヴという「声」や「言葉」に心が動かされた。
人には必ず過ごしてきただけの歴史があり、その歴史の上に今がある。等身大と言いながら過ごしている僕は本当に「今」を生きているのだろうか。自分の言葉で「今」を奏でてみたくなった。